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日米安保崩壊で中共軍が自由に太平洋へ 東方阻止線重視で島嶼国防衛困難 東部の僅かな島々が戦略的に重要 太平洋欧州領土注目

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 「大戦争」の結果、米国は決して戦争で負けたわけではないだろうが、政治的には負けた。もっともドミノ理論の想定実現を防ぐのには成功したとも言える。逆に北ベトナムは、軍事的には米軍を殲滅したわけではなく戦争に負けなかっただけであるが、南ベトナムを統一し、米軍を始めとする外国軍を排除したのだから政治的には戦争に勝った。

 米国が北ベトナムを殲滅できなかったのは、そもそも局地戦として自ら手足を縛っての戦争だったからであるところが大きい。米ソの代理戦争と言われる代表例であるが、米国もソ連も、そして中共も、拡大することを忌避したからであり、結局は、米ソの核戦力による全面核戦争へのエスカレーションを避ける意思が双方にあったからだ。

 戦術的にも、目視による空中戦を強いたり、北ベトナムへの空爆が何度も制約され、またラオスなどの域外での戦闘行為が表立っては制約されていた。それが故に戦争の長期化も招き、それが厭戦気分を招きもした。

 戦争の大義も不明確で、米国内政において戦争継続は大統領選挙にも悪影響となり、戦争を継続する意思がそもそも欠けていたと言える。まあ、米国にとってはベトナム戦争はゼロサムゲームではなかった。南ベトナムを取引材料に、周辺のドミノ化を阻止できれば一応満足だった。それより大統領選挙に勝つことが重要だったのである。

 また北ベトナム軍も、インドシナに駐留する米軍を殲滅できる能力はなく、まして米本土や米国の海上権力を脅かす存在ではなかったので、米国も必死に戦争を継続する必要には迫られてはいなかったのである。

 米国としても、あれだけの大兵力を動員して大戦争を遂行したのであるし、ソ連や中共による援助以上の介入を防いだという意味では、ドミノ効果を防ぎ、周辺諸国の安全を維持したのだから、もはや南ベトナムを救う必要はなかったのが実態なのだろう。

 次にキューバのバチスタ政権への不関与が挙げられる。米国はキューバを事実上保護国にしており、米国資本も太く深くキューバに根を張っていた。

 当時、米国政府もバチスタ政権をかなり見限っていた感が強く、遅かれ早かれ政権が代わるだろうと見ていたようである。実のところ当時頭角を現していたカストロをバチスタの後継としても良いとする見方もあったようで、随分前に読んだので出典を明らかにはできないが、春日幹夫氏の「CIA対日工作」であったか、もしかしたら別の書物かもしれないが、CIAがカストロを支援していたような記述を見たことがある。

 本来、カリブ海は米国にとって、柔らかな下腹であり、米国の経済にも影響があったからキューバの地政学的な意味は小さくはなかった筈であるが油断があったようである。当時、米国がキューバに派遣していたスミス大使は、スペイン語を解することができなかったようで、状況が把握できていなかった。また、カストロも決して共産主義にそれ程、傾倒していなかったということも言われることが多い。実際、1959年1月に発足した革命政府を米国政府が承認したように、キューバとの関係は革命後も当初は悪化しておらず、米国が政策を批判するにしたがって悪化していったようだ。

 つまり米国は、腐った幹の脇の新芽が、新たな幹になると思ったら実は癌細胞だったことに気が付かなかったわけである。

 さらに米国民の間では、ニューヨークタイムズ紙ヒューバート・マシューの記事を通じ、カストロらの「7.26運動」が知れ渡り、好感を呼んでいた。1958年3月には国内世論に配慮した米国政府は、バチスタ政府軍への武器禁輸を決めている。

 米国との関係が悪化し、キューバとソ連との協力が深まって、慌ててビックス(コチノス)湾に亡命キューバ人の部隊を上陸させるも、時既に遅しであった。

 米国の情報不足と全般状況把握の誤りが、1962年11月の危機を招くこととなったのである。危なく全身症状になるところを寛解させることに成功した。バチスタ政権を支える意義は失っていたが、もしソ連の意思がもっと強固であれば全面核戦争になる瀬戸際であった。キューバが強大化しなければ、それで良しと米国としては判断したのであろう。

 3つ目として、1933年のニカラグアからの海兵隊の撤退である。サンディーノとの間でゲリラ戦を続けていたが、互いに殲滅を果たせず世界恐慌の影響を受け撤退せざるを得なくなった。元々重要性が、恐慌対策より低かったということだろう。

 4つ目は同じくニカラグアに対してで、1979年のソモサ政権に対する米国の対応である。米国ABCテレビのビル・スチュアート特派員が暴行され射殺された瞬間映像が全世界にテレビ放映されたことが米国の関与を引くきっかけとなった。この暴行射殺事件が放映され米国世論が反ソモサに傾くことになり、米国政府もソモサを見捨てざるを得なくなった。そこで米国はOAS平和維持軍の派遣案を出して「ソモサなきソモサ体制」の維持を図った。しかしこの策もラテンアメリカ諸国の反対のために失敗した。

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