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幕末から明治初期にかけ、洋式木造船建造技術が海軍の建設に寄与した。
古来からの、たたら製鉄による玉鋼は鋳造しても脆く大砲の材料にするには不向きで、高炉による鉄が無ければ、反射炉では鋼を作れなかった。
そこで高炉や転炉の技術を導入して質の良い鋼の大量生産が可能になった。
大砲に強靭な鋼を使うことが出来るようになり、薄く軽くなった砲身を、軽快な車輪付きの砲車に乗せることができるようになった。
また鋼の大量生産が、外洋を長距離航行でき、艦隊に随伴できる速力を持った戦艦の出現を可能にした。
高島や端島の炭田で産出する粘結性瀝青炭は、コークスの原料となり、製鉄業に供給され、大量の鋼を生産できる基礎となった。
列強諸国の技術に追いついて、これら明治日本の産業革命遺産が富国強兵政策の礎となった。
〇明治日本の産業革命遺産
2015年「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が第39回世界遺産委員会でUNESCOの世界遺産リストに登録された。
遺産は、山口・福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島・岩手・静岡の8県に点在し、稼働遺産を含むのが特徴となっている。1850年代から1910年までの間を対象としている。
ガイダンス施設として、内閣官房が東京都新宿区若松町に産業遺産情報センターがある。
現在、その展示内容について反発する国があり外交・政治問題となっているのは周知のとおりであるが、真実曲解に基づいたもので、取り合うまでもないので、ここではまじめに触れずに無視し、遺産が果たした軍事的な意味について追加して解説する。
〇三重津海軍所跡
徳川幕府の海軍伝習所を1858年に佐賀藩が引き継いだのが三重津海軍所である。木造外輪蒸気船「凌風丸」を建造。日本で初の反射炉の建設にも成功している。
三重津海軍所では、涼風丸以前に薩摩藩と幕府が蒸気船を開発したが、これらは実験的な船で実用性は低かったと伝わっている。製造には株式会社東芝の基礎を作った田中久重も当たっている。涼風丸は外輪式の洋式木造船であった。洋式木造船そのものはすでに他で製作されている。
大日本帝国海軍の原点の一つである。この19世紀半ばは世界の海軍にとっても大きな変革期だったため試行錯誤は避けられないものであったと思われる。実は欧米列強との差は思うほど大きくはなく、欧米そのものが試行錯誤の渦中だったのである。
〇韮山反射炉
日本で稼働したことが確認できる唯一の反射炉である。韮山反射炉が稼働したときは、欧米諸国も反射炉製鋼から次への時代へ移る直前であった。