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製鉄・製鋼、造船、石炭、これら明治日本の産業革命遺産が富国強兵を実現した。

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〇集成館


 1851年に、薩摩藩によって建設された日本発の工場群である。
 琉球防衛を目的に建造された琉大砲船の1隻である「昇平丸」を1854年に集成館が竣工させている。「昇平丸」の竣工は浦賀奉行が製造した琉大砲船「鳳凰丸」に続くものであった。ちなみに3隻目の「旭日丸」は水戸藩が整備した石川島造船所(現IHI)で製造されている。その水戸藩では既に1841年に小型洋式船が、幕府の目を盗んで密造されている。一部に和船の技術も使われているようであるが、これらの琉大砲船は初期の洋式木造船であるといえる。
 日本における洋式木造船の技術は意外に新しい。大正期までの日本の木造船の多くは、近代化して機関や上部構造物を設けていたものの、船の構造は、竜骨がなく、木の板の外皮で強度を保つ、いわゆる従来の和船に他ならなかった。地方の船大工には和船の知識しかなかったのだからやむを得ない。
 木造船というと古いイメージがあるが、鉄製の世界最初の船は1819年に完成した河川客船「バルカン」であり、鋼製の船に至っては1881年に完成した「セルビア」号であった。まだまだ19世紀半ばのこの当時は木造船が欧米でも主流の時代である。1853年に浦賀に来航したペリー艦隊の軍艦だって木造だし、その内、蒸気船であったのは4隻中の2隻だけなのである。
 これら琉大砲船の全長と横幅の比率は1対4強であり、ティークリッパーなどが1対6に達していたのに比べると古いタイプの帆船であった。艦船が高速化を図るには比率が大きく、細長いことが有利である。しかし、小回りが利かなくなり、特に港湾内での航行が困難になる。蒸気機関を持つタグボートが無い時代には、この程度が妥当であったのである。
 19世紀半ばには、蒸気機関はまだ一段膨張式で燃費が極端に悪かったため港湾での出入りに使われるだけであり、大洋を航行する帆走船は世界的に見ても遅れているとは言えない。蒸気機関だけで大西洋を横断しようとすれば、船内はすべて燃料で占められてしまい、積み荷を積載できなかった。
 余談であるが、この時代に蒸気機関で大西洋横断航路を実現しようとした建造された船があった。英国の「グレート・イースタン」である。当時の常識を遥かに超える巨大船である。船が巨大なら大量の燃料を積載しても、積み荷を積む余裕ができると考えたのである。その巨大な甲板を活かして海底ケーブルの敷設に使われただけで、やはり経営的に成り立たなかったようで、これに匹敵する巨大船は20世紀になるまで出現していない。
 1855年には、集成館は日本初の外輪式蒸気船「雲行丸」を建造している。書籍をもとに独学で試作したもので、蒸気漏れにより出力が小さく実用性は低かった。外輪式はスクリュー(暗車)式普及以前に広く普及していたが、後にスクリュー式の優位性が明らかになる。しかし、外輪式はプロペラシャフトを船尾管を通じて水中に通す必要がないため、面倒なパッキンが必要ないことや、当時の蒸気機関の多くがシリンダーが下にあり、クランク軸が上にある倒立型であるため、高い位置から動力伝達が可能な外輪式が便利であった。外輪は波に弱いので当時は外洋に出ると分解収納していたことから外輪式でも問題はなかったのである。
 19世紀半ば当時、世界では、商船と同様、軍艦であっても帆船が主体であり、帆走設備を持たない蒸気機関だけのものは自走浮き砲台などに限られていた。帆走での海戦は、風上に直進できないなど、風向きに対して航走可能な方向が限られ、また敵の風上を占位して風を遮った方が優位で、風上の取り合いであったから、狭い海域での海戦は困難であった。したがって狭い海峡や湾内で行動の不自由な敵艦隊を迎撃するには、外輪式一段膨張式機関の機帆軍艦は元より、魯櫂船でも十分であったとも言える。
 ペリー艦隊の江戸湾来航に対し、江戸幕府は江戸への接近を避けるため浦賀や下田を用いたと言われるのはもちろん事実だが、ペリー提督の本音は江戸湾に入りたくなかったのだろう。4隻中2隻は蒸気機関を持たなかったから、牽引するしかなく、風向きによっては浦賀水道から脱出できなくなる。もちろん水深も浅いから下手をすれば座礁しかねない。

〇萩反射炉と恵美須ケ鼻造船所


 幕末期に反射炉は日本全国に11か所、建設されたが、萩のものは1856年に試作したもので、実用にはならなかったようである。薩摩の集成館のものは1857年、韮山のものも1857年に建設され、先に述べた通り、稼働が確認できるのは韮山のものだけである。
 恵美須ケ鼻造船所では、幕府の君沢形をモデルとした木造帆船、丙辰丸が1857年に建造されている。君沢形とは、津波で破損したディアナ号の代船として戸田村でロシア側の指導に基づいて建造したヘダ号の同型船である。それまでの洋式木造船が和船との折衷のような船であったとも言われているから、本格的な洋式木造船としてはこちらが最初かもしれない。先に水戸藩の密造の話もあり、おそらくそこそこの洋式帆船を作る技術はあったのだろう。しかし造船技術の普及としての貢献は大きかったようだ。大日本帝国海軍も当初は木造軍艦が大半で、これらの技術習得は重要な意味を持つ。

〇釜石・橋野鉄鉱山


 橋野鉄鉱山では、高炉を建築し、1858年に初出銑に成功させている。還元剤として木炭を用い、送風の動力に水力を用いたものである。それまで日本においては、たたらを用いた製鉄が行われていた。たたらにより作られた玉鋼は、原料の砂鉄にチタニアが多くシリコンが少ないもので、チタンの割合が1割を超えると融点が上昇し反射炉内で融けにくくなる。また、珪素が少ないと炭素を鉄から分解し難いので凝固する際に黒鉛の結晶化が進まず、その黒鉛とならなかった炭素が鉄と結びつき、化合物であるセメンタイトを多く生成する。セメンタイトの結晶を多く含む白銑組織を持った鉄は、鉄とセメンタイトの熱膨張率の違いから割れやすい。そのため玉鋼は鋳造しても脆く大砲の材料にするには不向きであった。
 各地で作られた反射炉は、熱を反射することで得られる高温により、銑鉄を融解し、融けた銑鉄の液面が空気に触れることにより、内部の炭素が燃えて二酸化炭素として分離し、炭素が減って液面上に浮き出た鋼を集めることで、鋼を製造する(パドル法)に使うものであったから、溶融し難いと燃料を多く消費し、また、白銑を多く含むものになってしまうのであった。
 結局、高炉による鉄が無ければ、反射炉も使い物にはならなかったのである。また、仮に反射炉に高炉による鉄が供給されていたとしても、反射炉での製造は燃料費が大きく掛かり、鋼のコストは高いままであったろう。
 しかし欧州でもベッセマー転炉法が開発されるのは1857年であるから、この時点では反射炉を用いるしかなかったのである。
 また、たたらは、炉をそのつど解体して玉鋼などを取り出すバッチ生産であったのに対し、高炉は上部から投入された原料が、下降しつつ還元され、鉄と不純物のスラグが下から連続して出銑できるプロセズ生産であったことも、大きなメリットであった。
 高炉による製鉄を成功させたことは、製鋼への一里塚であったのである。
 さらに釜石では田中製鐵所が1894年にコークス高炉を実現させた。こららの技術が製鋼技術につながって行く。

参考記事「水に強いという20式小銃は、ステンレス製?鍍金と併用?部品交換前提?行動間耐久と割り切り?弱点が生じる可能性も。」https://sucanku.xsrv.jp/0000019-2/329/

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