〇官営八幡製鐵所
鉄鋼の国産化を必要として、銑鋼一貫製鉄所として、1901年、田中製鐵所やドイツのGHH社から技術を導入して建設された。ベッセマー転炉が採用されたのも、この八幡製鐵所が最初である。大東亜戦争以前、日本にあった転炉は、この八幡製鐵所のものと、1938年に導入された、日本鋼管のトーマス転炉の2基だけであり、戦後の1960年代まで、わが国の製鋼は平炉が主体だったのである。
反射炉は熱源に燃料を必要とし、融解した鉄の液面のみしか空気に触れないため、鋼の収量増やコスト低減に制約があったのである。
転炉は、高炉からの銑鉄を、注ぎ込み、その中に酸素を吹き込むものである。もともと高温の銑鉄の中で、吹きまれた酸素が、銑鉄に含まれる炭素と反応して燃えるので、燃料を使わなくても高温が得られるし、吹きこまれた酸素が銑鉄を撹拌するので反応も速いのである。そのため反射炉に比べ、速く安く鋼を作ることができるようになった。
ちなみに平炉というのは、銑鉄に、もともと炭素が少ない鋼の屑材を加えることで、炭素を薄めて鋼にするものである。
鋼が工業的に大量に使用されるためには、この転炉や、これを鍛造するスティームハンマーや圧延機が実用化される必要があった。したがって欧州でもベッセマー転炉が発明されるまでは、鋼を大量に使用することはできなかったのである。
日本でも鋼が工業材料に一般化するのは1890年代である。これは欧米と大きく違わない。欧州で産業革命が18世紀に起きて以降、実はそれまでの間は鋼ではなく鉄の時代だったのである。英仏にはその時代の遺構が多く残されているが、単位面積当たりの強度が鉄と鋼ではまったくことなることから、構造物の断面積や骨材の量が大きく異なっていることがわかる。より大きく厚くしないと強度が足りないのだ。
大砲に鋼が使われるようになるのも比較的新しいことである。幕末維新に度々登場する英国製のアームストロング砲は錬鉄製であるし、大阪砲兵工廠で技術導入され最初に量産されたフランス式四斤山砲は鋳銅製である。日露戦争で活躍した二十八糎砲も鋳鉄製の砲身に鋼製の箍を嵌めたものだった。鋼製の砲身を日本で初めて製作できるようになるのは1903年に開発された9センチ臼砲であった。
大砲、特に野砲は軽く作ることが要求される。野砲が戦場に出現するのは18世紀末である。これはフランス陸軍のド・デェバリエ砲兵監の改革によって砲身の薄肉化が図られたことによって野砲が実現されたのだった。それまで大砲は攻城戦や海戦で使われるだけだった。重く、戦闘の推移に合わせて移動することが困難なため野戦では滅多に使うことは困難であった。当時の大砲は鋳造で作られたが、もっぱら鋳造に向く青銅が使われた。鋳鉄は脆く、もちろん鋼は大量に得ること自体が困難である上、鋳造すると凝固時の収縮によって引け巣が入るので、そのまま大砲の砲身には使えないのである。日本で戦国時代に使われた大砲は、このようなものであった。ちなみに火縄銃は鋼で作られているが、棒に巻き付け鍛造によって作られている。小口径のものであれば鉄砲鍛冶による手作業でも可能ではある。
鋳造だけで砲腔を作ると、中子が浮力で浮くため正確な寸法に作ることができない上、鋳造に向く青銅であっても、引け巣が入りやすい。このような理由から安全マージンをかなり大きく確保しなければならず、重い砲身しか作ることができなかったのである。18世紀に切削加工技術が向上し、砲身を精密に製造できるようになったが、砲身に鉄や鋼を用いることは危険なことであったのである。それでも精密加工は大砲の薄肉化を実現したのだった。軽くなった砲身を、軽快な車輪付きの砲車に乗せたのがド・デェバリエの改革だった。ナポレオンの軍隊はこの大砲で戦ったわけである。ちなみに世界最初の自動車と言われるキューニョの蒸気自動車は、大砲を牽引するトラクターとしてド・デェバリエがパトロンとなって開発されたものだった。
フランス式四斤山砲は普仏戦争頃まで使われたが、クルップ製の鋳鋼砲に敵わなかった。鋼を大砲を使う必要性に迫られてきたのが、19世紀後半であった。日本の近代化の時代と重なったのである。
〇三菱長崎造船所
前身の長崎鎔鉄所として1861年に日本で最初に作られた洋式工場である。1887年には長崎造船所最初の鉄製汽船として夕顔丸が竣工している。日本では、その後、すぐに鋼船の時代になったので鉄船は数少ないものである。夕顔丸は端島との連絡に昭和32年まで使われた。
1889年には、後に日露戦争でロシア艦隊に撃沈された常陸丸が建造された。英ロイド協会から初めて船級を認められた船であるが、船は、総トン数6千トンを超えると、建造が難しくなると言われている。これを初めて日本人主導で外交人の指導なしで建造したものであった。
当時は、鋲接で鋼材を接合していたのであるが、総トン数6千トン当たりから、船の自重で図面通りに部品を作っても、歪んでリベットの穴などが合わなくなるのである。それらを見越して建造しなければ作ることが困難になるのが総トン数6千トンなのである。
大正に入り、民間の造船所として、神戸川崎造船所とともに初めて戦艦を建造することになり、戦艦霧島を建造した。それまでの戦艦薩摩から戦艦比叡までの国産戦艦はすべて海軍工廠が建造したものだった。
日本で戦艦が初めて作られたのは1910年に横須賀海軍工廠で竣工された戦艦薩摩が最初であった。さらにそれに準じた装甲を施した国産装甲巡洋艦筑波が1907年には竣工されている。
実は戦艦が出現したのは、1892年の戦艦ロイヤル・サブリンの竣工であるから、欧米に比べ10数年程度の遅れである。装甲を戦闘部分などの限定した防護巡洋艦であれば秋津洲を1894年に就役させている。
戦艦の揺籃期に行く末を見届けてから、建造を始めたということであろう。各国とも試行錯誤の段階であったから、貧乏な日本としては、輸入艦を運用して研究したというのが実態であろうと思う。
戦艦が出現するまでにも装甲を施した装甲艦はあった。
戦艦というのは、帆船時代の戦列艦から出た言葉であり、艦隊を組んだとき弱点にならないように最強艦として戦列に並ぶ軍艦の意味である。
したがって外洋を長距離航行でき、艦隊に随伴できる速力を持たなければ戦艦とは呼べないのだ。
それまでの蒸気機関は一段膨張で効率が悪く長距離航行は不可能で、2段、3段の膨張を行えるような高温高圧の蒸気を作ることができるボイラーもなかった。装甲艦は舷側に重い装甲を貼り付けているため重く、喫水が深くなり、外洋では甲板が波に洗われるようなものが多く、沈没するものが続出していた。波が静かでも喫水が深いために速力が出せなかったのだ。
装甲を施した軍艦を外洋で走らせるためには予備浮力を大きくしなければならず、どうしても大型化するしかない。ところが木造や鉄造では、波に乗った時にボギングやサキングという状態を繰り返すことになり、全長を延ばすと強度が足りなくなるのである。したがって予備浮力のある装甲艦を作るためには鋼で作らなければならないわけである。
それらの技術が出そろったのが、1890年代だったのである。日本の技術がそれほど欧米と差があったわけではない。