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9月27に始まったナゴルノカラバフを巡るアゼルバイジャンとアルメニアの紛争は、一応、決着したようである。7月にはアゼルバイジャン北西部のトブスでの小競り合いが発展したようだ。
初戦においてアゼルバイジャン軍が戦略・戦術上の重要拠点を抑えて、終始、アゼルバイジャン軍優位に推移した。
10月に入り、南部のホラディスを拠点に比較的に地形が緩やかな南部からアゼルバイジャン軍がナゴルノカラバフ地方の首都ステパナケルトに進撃を開始した。首都ステパナケルトに対してはかなり早い時期からアゼルバイジャン軍の砲撃が行われている。
紛争後半に入り度重なる停戦が繰り返されたが、11月にアゼルバイジャン軍が一気にナゴルノカラバフ地方第2の都市シュシャを抑えて大勢が決した。
シュシャに対する最後の攻勢についての推移はまだ不明な点が多いが、今後、更新されて明らかになりつつある。
戦闘の概要図
〇 概要
9月27日から続いていたナゴルノカラバフをめぐる、アゼルバイジャンとアルメニアの紛争は、一応決着がついたようである。
日本のマスコミは、停戦に関しての報道を流してはいるが、戦闘の推移についての報道を殆どしていない。もちろん、報道が少ないことは日本になじみの少ない地域であることも理由ではあるが、それにしてもシリア内戦などでは度々、戦闘のあった地名を報道しているから、やはり関心が低いのであろう。
今後、情報量が増えてくるだろうが、紛争の推移を現時点の情報でまとめておくことは、今後の研究のために意味のあることであるだろう。
現在、得ることができる情報はWikipediaの英語版に限られる。その出展もアゼルバイジャンとアルメニアの発表に限定されている。多くはアゼルバイジャンの情報であるようだ。
以下は、これらの情報を元に得られる情報としてグーグルアースや気象庁データなどで補って戦況を追いかけてみたものである。
この紛争の推移を簡単に概略述べると9月下旬の開戦早々に北部の拠点を抑えたアゼルバイジャン軍が、10月初旬に南部から攻勢を掛け、その後、何度かの停戦の後、シュシャを抑えたところで最終的な停戦に至っている。後半については、現時点では、まだ推移が明らかになりきっていない。
多くの読者が、ナゴルノカラバフに土地勘がないと思われるので、読者のイメージの助けとして、地域の形を他のものに喩えることにする。
ナゴルノカラバフはネズミが左向きに後ろ脚で立ち上がった形をしている。今後、この形を基準に説明したい。必要に応じ日本の地理にも当てはめてみた。
なお、日本ではナゴルノカラバフと呼ばれることが多いが、現在、現地ではアルツォフ共和国と称している。アルメニア軍とは別にアルツォフ軍も独自に行動しているようであるので、アルツォフと称することにする。
因みにアルツォフの形をネズミに模した鼻先と尻尾に当たる位置の距離は北西と南東を結んで140kmほどである。距離と方向を置き換えると、その関係は東京と群馬県の四万十温泉、あるいは大阪と山陰地方の餘部の先の沿岸に相当する。
〇 初戦と北部の拠点確保
まず前哨戦として7月にはアゼルバイジャン北西部のトブスで小競り合いが発生していたようだ。8月にはトルコとアゼルバイジャンの合同演習が行われている。この時期に双方で、ダムと原発に対して攻撃する可能性を表明し挑発が行われている。
9月27日 0810にアゼルバイジャン軍が首都ステパナケルト等、複数の個所の爆撃を開始したと、アルメニア国防省は発表した。この爆撃に先立ちアゼルバイジャン軍は国境付近で0600頃に砲撃を開始したらしい。さらにアゼルバイジャン軍はネズミ形の口先にあたるヴァルデニス方面への攻撃も開始した。このヴァルデニスにはアルメニア方面との連絡路となるアグダラ高速道路があり、この連絡を封じるためのもののようである。
またアゼルバイジャン軍はネズミ形の鼻先にあたる標高3723mのムロブ山山頂付近も占領している。山頂付近の観測者は首都ステパナケルト方面を広く見渡すことができる。地球を球とした場合、山頂付近の標高から計算上200km以上見通すことができる。実際の地形では尾根が邪魔をするもののグーグルアースで確認すると南部の戦闘地域辺りも見えるようだ。この紛争を終始アゼルバイジャン軍はここから全体像を観察できた模様だ。
27日の日の出はアルメニアの首都エレバンで0648、アゼルバイジャンの首都バグーで0632、月齢は9.9であるが0140には月入となり、また当日のアルメニア北部の降水量は5㎜程度あることから雲もあり、砲撃が開始された0600時点ではまだ暗く、地平線が確認できるかどうかというところだろう。精密射撃というよりは初期のアゼルバイジャン軍の侵攻を容易にするための援護的な砲撃なのであろう。おそらく夜間に攻撃発起位置まで隠密に接近し、辺りが見えるようになって各部隊が侵入を開始したのではないだろうか。砲撃開始が前線の部隊の攻撃開始となったのだろう。
またネズミ形の尻尾にあたる位置にあるホラディスをアゼルバイジャン軍が9月27日に占領している。
このホラディスはイランとの国境に沿うアラス川の北岸に位置する集落である。アラス川が小カフカス山脈を切り分けるように谷地が続く途中にある。首都バグーにつながる鉄道路線もあるが、どこまで運行しているのかは分からない。現在、この路線はアゼルバイジャンとアルメニアとの国境を挟んで閉鎖されている。ホラディスの南西8kmにはララタパの丘がアラス川の谷地の北面にあり、丘上に1kmに及ぶ連絡壕などを確認することができる。この丘上の陣地はアラス川流域の谷間を俯瞰している。この紛争を通じてホラディスはアルツォフへの攻撃の兵站拠点となつたと思われる。
9月28日には北部のタルシュとマタギスにアゼルバイジャン軍が攻撃を加えた。
このタルシュとマタギスはネズミ形の立てた耳の先に位置し、前日にアゼルバイジャン軍が占領した南部のホラディスの北北西115km前後に位置している。両方とも西からつながる谷の斜面に位置し北のタルシュと南のマタギス相互の距離は尾根を挟んで南北6kmだ。タルシュとマタギスの間の高地は東のアゼルバイジャン側の低地を俯瞰する形で崖線を形成している。タルシュとマタギス両者を結ぶ道は崖上にあるが、この崖上の道に沿って野砲用と思われる掩体があり高地全体が砲台となっている。この崖下にもタルシュとマタギスを結ぶ南北の道路があるが、斜面の法面にも連絡壕のようなものがあり、この道路はアルツォフ側高地から俯制されている。
マタギスの南には、東方向に流れる河川があり稜線間3km程の谷地となっている。谷の入口の底の部分にはダム湖がある。川は屈曲して南南西に遡り16km程行くとSARSANG水力発電所がある。位置はネズミ形の首の後ろに当たる所である。SARSANG水力発電所はアルメニアとアルツァフの電力の40-60%の供給源であり、また石灰や貴金属を産出するМЕХМАНА鉱山がある。水力発電所は石油資源の乏しいアルメニアとアルツォフにとって戦略的な防護対象である。ちなみに40%はアルメニアの首都から西に30km程に位置するメツァモール原発が賄う。アルメニアは過去にジョージア(グルジア)からのパイプラインが破損した際に窮乏を強いられたことがあり、エネルギー資源の少ないアルメニアとアルッォフにとってSARSANG水力発電所は重要インフラと言える。マタギスの南の河川には橋梁があり南北の交通の要衝であり崖下の扇状地のタタール県ではこの紛争を通じて砲撃が加えられている。SARSANG水力発電所から稜線上を南に40kmも下れば首都ステパナケルトであり、また西に70km盆地を下って行けばアルメニア領であるためアルメニアとしても重要な正面である。
11月初旬時点までに、北方のこの方面では砲撃などが主な攻撃であり一進一退はあまり見られず、後にトナシェンでの戦闘があっただけである。主にアルメニア軍とアルッォフ軍を拘束したのだろう。地形が急峻なのでアゼルバイジャン軍としても前進が難しいのかもしれない。
〇 南部への拡大
9月28日、南部では、ネズミ形の腰に当たるホジャベンドでアゼルバイジャン軍の航空機を撃墜したとアルメニアが発表(アゼルバイジャンは否定)し、腿に当たるイラン領コダアファリンではロケット弾が着弾している。
ホジャベンドの位置は、撃墜発表翌日の29日に奪還を目論んだアルメニア軍をアゼルバイジャン軍が撃退するとともに30日に掛けて戦闘が続くことになるフュズリ – ジェブライルから北に21kmと、同29日にアルメニア軍をアゼルバイジャン軍が撃退することになるアサギ・ヴェサリから北西に14kmであり、目的が何であれアゼルバイジャン軍機が飛行していても不思議な点はない。
アルメニア軍がどのように撃墜したかなどの情報がないので詳しいことは分からない。ホジャベンドはアルツァフのホジャル空軍基地から東南東に30km程のところにあるものの、撃墜を事実であるとするならアルメニア軍及びアルツォフ軍共に保有しているのは対地攻撃機のСу-25や練習機のЛ-39等で、両国軍は戦闘機を保有していないため、アゼルバイジャン機を撃墜したのは防空部隊による可能性が高い。ホジャベンドは高地ではあるが割となだらかな地形で大型地対空誘導弾を持ち込むことも不可能ではないだろう。しかし航空機は地形を利用してレーダー監視から身を隠すように飛行することも可能であるから必ずしも要撃に向いているとも言えない。撃墜について両者で主張が異なるのは地形が邪魔をして撃墜を最後まで確認できなかったことも考えられる。アゼルバイジャン機を撃墜したとする時刻は2000頃のようである。全域で降雨はなく月齢10.9で南中に近い角度にありレーダーを用いらなくても飛行を視認できたかもしれない。
ホジャベンドから北60kmのキョヤルフから南のアサギ・ヴェサリの間では地上戦の記録がなく紛争を通じてアルメニア軍・アルツォフ軍の支配地域であるのかもしれない。目立った対地攻撃の記録もないので、撃墜されたのは、アルメニア軍・アルツォフ軍の南北間の兵力の移動を偵察する目的の偵察機だった可能性が高い。アゼルバイジャン軍としては北方のアルメニア、アルツォフ軍の兵力が拘束され、10月に入ってからの南部での攻撃正面に北方からの兵力が転用されていないか確認したのだろうか。
29日にはネズミ形の腰にあたるフュズリ – ジェブライルと耳に当たるキョヤルフでアルメニア軍戦車が破壊された。
フュズリ – ジェブライルは、27日にアゼルバイジャン軍が占領したホラディスの北西20km程に位置する。そのフュズリ – ジェブライルから更に北北東に13km程のアサギ・ヴェサリでは奪還しようとしたアルメニア軍をアゼルバイジャン側が撃退した。
アサギ・ヴェサリは、東西に流れる河川を挟んで南北に稜線があり、東向きに配置された掩体などが確認できる。首都ステパナケルトまでは西南西に42.3km程でホジャベンドを経由して谷や尾根を通る道路も通じている。陣地には着陸帯のようなものも見られる。
ネズミの形の頭の上に当たるダシュキャサン県ではアルメニアのヴァルデニスからアゼルバイジャンが砲撃を受けていると発表(アルメニアは否定)
タルシュと、これと同じくネズミ形の耳に当たるハサンガヤでは午後、アルメニア軍のそれぞれ第5と第6の自動車化歩兵連隊の大隊陣地を砲撃で破壊した。北方の戦場でもアルメニア・アルツォフ軍を圧迫しているようだ。ハサンガヤはアゼルバイジャン側に出た位置にあり、隘路を背後として入り口を抑える位置ではあるがアルメニア側にとって形勢的には不利である。
9月30日には北部で戦闘があり、前日に砲撃のあったタルシュから尾根と谷を越えて南南西10㎞弱のトナシェンで午前中、アルメニア軍第10山岳師団第7山岳狙撃兵連隊第2大隊が大損害を被り撤退する。SARSANG水力発電所の下流(北北東)12km地点の西側尾根上に位置する。
同日午前中トナシェンから山を越えた北西17km程の位置にあたり、ネズミ形の顔に位置するゴランボイ県のアシャギ・アグジャケンドに、アルメニア軍が砲撃を開始
アルメニア軍がネズミ形の頭にあたるタタール県のタタールにも30分間に渡り砲撃する。
この日は場所が明確ではないがアルメニア軍第18自動車化師団第41特殊連隊の指揮所を攻撃したり、アゼルバイジャン軍が南部のフィズリ県に展開するアルメニア軍4個大隊、マタギスから南南東15km程の隘路の出口の町アグダラのアルメニア軍第10山岳師団第5山岳狙撃兵連隊指揮所を攻撃している。指揮所はあまり動きを見せるものではなく偽装も厳重に行われているものであるから、アゼルバイジャン軍はアルメニア・アルツォフ軍の配置をかなり把握しているようだ。各方面の指揮所が攻撃されたことから、この時点で、アルメニア・アルツォフ軍の東正面の指揮系統が破壊され、同軍の前線部隊は各個戦闘に移行した可能性がある。
10月1日には南部ではロケット弾攻撃があり、27日からアゼルバイジャン軍が占領しているホラディスと谷に沿って7km程南南西にあるチョジュクマルジャンリが、西に90km弱のゴリスから攻撃された。
同時にゴランボイ県、タタール県、アグダム県の最前線付近の村もロケット弾で攻撃されている。
中部の、ネズミ形の背中にあたるアスケランでは10月1日アゼルバイジャン軍のUAVが撃墜されている。
北方では前日に続きタタールがアルメニア軍に砲撃される。
10月2日にはネズミ形の頭部にあたる北部で、ユハル・アグジャケンドをアルメニア軍が攻撃し、そこから35km弱南東のアグダラ付近ではアゼルバイジャン軍がアルメニア軍砲兵部隊を攻撃、アルメニア軍は損失を被り撤退、41km北北東のカラムサルをアルメニア軍が攻撃している。
ユハル・アグジャケンドは山の尾根にあり、南部を見渡すことできる。戦闘がトナシェンからSARSANG水力発電所の方へ拡大した場合に観測点として重要な拠点となるだろう。北部からの作戦の布石と考えられる。
アグダラは山脈の切れ目があり扇状地に町が広がっている。隘路を形成し、ここを通過すればSARSANG水力発電所まで13.6kmで道路も通じている。
この日にはアルメニア軍による砲撃が各所に広範囲に行われている。アゼルバイジャン軍も首都ステパナケルトに砲撃したとする発表されている。
〇 ハドルドへの侵攻
10月3日南部のホラディズから、アラス川の谷に沿って南西に10km弱のメディリ、同じく11km強のシャシリ、16km弱のアサギ・マラヤン、谷から麓の谷を登り、ホラディスから西南西に15km弱のシャベイ、シャベイから西北西に3km弱のクチャク、更にはホラディズから34km西南西の谷を進み麓を登ったジャブライル県の一部もアゼルバイジャン軍が夕刻までに制圧した。
メディリは低地にあり、ララタパの丘を始めとする河岸段丘上から俯制される位置であり、遮るものもない。ララタパの丘から南南東に3.1kmの距離であり命中するかは別として重機関銃や軽迫撃砲などの直接照準火器でも届く距離である。ここにアゼルバイジャン軍が進出したということは、すでにララタパの丘は撤退し放棄されたか、火力制圧されたのかもしれない。シャシリもララタバの丘から南に4.5kmであり、陣地帯そのものも南西に伸びていて距離はもっと小さくなる。ここも同様の地形であるからメディリと同じようなものである。
アサギ・マラヤンも低地であるが、若干の起伏はあるようだ。しかし西に続く谷地北側の高地からアサギ・マラヤンが俯制されることに違いはない。
シャベイは、アラス川流域の谷に出る南北に走る支流の谷の合流するマルジャン(アサギ・マラヤンから西北西3km)から、谷を西北西に4.4km遡上した地点の北岸の河岸に位置している。シャベイに至る谷の両側はなだらかな斜面であるが両岸の高台上には多数の掩体や連絡壕が確認でき、シャベイ付近も同様に確認できる。
シャベイの上流にあるクチャクも基本的に状況は同じである。
なおクチャクからアルツァフの首都ステパナケルトまでは北西に57km強となり、ネズミ形の尻から横腹の中央を望む形となる。
またホラディズから裾野を登った北西10.4km弱のアサギ・アブドラフマンリをアゼルバイジャン側が制圧している。アサギ・アブドラフマンリは干上がった湖沼のような地形で東西に走る川の周辺になだらかな平地となっている。低い丘には連絡壕などからなる野戦陣地も見られるが、広く見渡しの効く場所である。おそらくアサギ・アブドラフマンリは守るに適した場所ではなくアルメニア軍の前哨陣地で早期に放棄されたのだろう。
この10月3日の時点で、ほぼアゼルバイジャン軍の展開が見えてくる。アゼルバイジャン軍がアルツォフを南北から鋏み込む態勢となっている。
首都ステパナケルトを東京に置き換えると、南部の攻撃拠点となるホラディスは房総半島の大多喜といすみ市の間ぐらいに当たる。いすみ鉄道の総元駅近くの宇筒原から南西に養老川を越えた大田代辺りを制圧し、一部が上総亀山駅と養老渓谷駅の真ん中あたりの石塚に進出したのに相当する。大体、房総半島の君津と勝浦の真ん中辺りであり、北部では、埼玉県加須市の東武日光線が利根川を渡ったあたりと、埼玉県幸手市と茨城県坂東市の間の利根川辺りに当たる。
アゼルバイジャンの戦争目的はナゴルノカラバフ地方の奪回であると思うが、その手段として政治的にはアゼルバイジャンがアルメニアの傀儡とするアルツォフの首都を陥落させることが一つの目標となろうし、軍事的にはアゼルバイジャン軍正面の敵を首都やアルツォフを支援するアルメニアから分断し、小カスカフ山脈に捕捉し無力化することであろう。南北鋏撃し、山脈の西壁以東を切り離す考えであろう。地形からみればアゼルバイジャン軍が北部のトナシェンやアグダラから首都ステパナケルト方面に進撃するには横走地形となりアルメニア、アルツォフ軍の強固な抵抗が予期されるが、比較的、南部のアラス川方面の地形は比較的になだらかな上、縦走地形なため進撃し易いと思われる。ただ北部の戦線にはアルツォフ側の発電所や鉱山が多く戦略的な要地であることに間違いなくアルメニア本国にも近いことからアルメニア、アルツォフ軍は兵力を北部の戦線に貼り付けざるを得ないだろう。
位置関係を例えて言うなら東京を防衛するために房総から葛飾に展開している部隊の背後を東京湾と江戸川の線あたりで孤立させることに当たるだろう。ちなみにアルメニアは平塚、秩父、前橋、長野、甲府及び沼津を囲んだあたりに相当し、アゼルバイジャンの飛び地であるナヒチェバンは静岡市と言ったところだろう。
10月4日にはアゼルバイジャンは午前中にアルメニア軍から各方面で砲撃を受けている。夕刻までに、ホラディスから南西に17km強かつ前日に制圧したアサギ・マラヤンから西に2.1km強のカルクル、そのカルクルから麓を下って南に1.6kmのユハルマラヤン、同じく麓の道に沿って南西に3.5km強のマフムドル、同じく麓の稜線を越えて西南西に1.7km弱のジャファラバド、ホラディズから西南西に22km弱かつ前日に制圧したクチャクから西に5.5km強のホロブル、そのホロブルから幾つかの稜線を越えて北北東3.1km強のダケサン、同じく谷に沿って西北西2.8km弱のカラカン、同じく稜線を斜めに越えて西6km弱のジャブライルを日中にアゼルバイジャン軍が制圧した。カルクルからホロブルの位置関係は稜線に沿って北西に10km弱離れ制圧地域が二分されている。
カルクルはアラス川に沿って河岸段丘の下を流れる小川の付近に位置するが北西方向に向かってなだらかな丘がアルツォフ方向に広がっている。丘の上は陣地だらけだ。ユハルマラヤンはアラス川に近いためか植生が豊ではあるが基本的に遮るものはない。マフムドルもほぼ同様だ。ジャファラバドは丘の方から流れる川を遡った先の稜線上に位置している。ここからはアラス川沿いの河岸段丘上の陣地を東西に見通すことができる制高点である。ここを占領したことはアゼルバイジャン軍の攻撃に大きく寄与するだろう。
ホロブルは緩やかな西北西から東南東に流れる谷の下にある平地で、谷は東南東のジャファラバドに下っている。谷を横断する小道がある。全体としてなだらかであるため谷の上にある高地からの見晴らしは良い。
ダケサンはクチャクとつながる谷の上流側に位置し、両側になだらかな高地がある。ホロブルとの間には数本の尾根と谷が隔てている。ダケサンとホロブルを結ぶ線に平行し北西には、北東から南西に走る道路がある。
カラカンは、ホロブルから谷に沿った先にある稜線で、小川の屈曲部のある高地である。付近の起伏の稜線を小道が貫いている、先ほどのダケサンとホロブルの上流部を結ぶ道路より、上流側に位置している。
ジャブライルは、カラカン付近の谷の屈曲から先に位置し、先ほどの道路と、別の谷を通じる道との交差点がある。広い谷底で北西に比較的高い稜線が北西から南東に走っている。この稜線からはホラディス方面を見渡すことができる。ジャブライルの位置関係は、首都ステパナケルトを東京に置き換えると君津市日渡根にあたり52km南南東である。木更津から14km南南東と言った方が分かり易いかもしれない。
4日から南部地域は天候が悪化したようである。イラン領内のタブリーズのデータであるが4日0.7㎜、5日7㎜、6日8.2㎜の降雨が観測されている。日の出は0655、日の入りは1845であるが実際には日中から薄暗い状態であろう。戦闘が進むに従い北へ移動し谷合の地形となり、日陰となって目視での観測は難しくなっていったろう。
また谷合の地形のため、一律の戦線の形成は難しいかもしれない。個々の拠点を一つづつ落としてゆく戦闘となるだろう。
この日の午前中、前線を視察中のアルツァフ共和国ハルチュニヤン大統領が重傷を負ったとアゼルバイジャンは発表しているが、アルツァフ側は否定している。
10月5日、ホラディズから西北西27.5kmのハドルトに駐留しているアルメニア軍第1自動車化狙撃兵連隊第3大隊が夕方までに撤退している。
前日にアゼルバイジャン軍が制圧したマフムドルから裾野の道に沿い西南西4km弱のシャハリアガル、そのシャハリアガルから谷地の北斜面を登った西北西2.1km強先の稜線上のマズラ、裾野の道に沿って西南西に2.6km強のサルザリをアゼルバイジャン軍が夜までに制圧している。
アルメニア軍は、昨日に続きこの日も各方面に砲撃を行っている。
シャハリアガルはアラス川の北に平行して流れる水路にそった場所で、麓を流れてくる川と交差する場所である。麓の斜面にあるが俯制できる高地からはやや距離がある。
サルザリも、シャハリアガルからの水路とつながっている。似たように麓に位置し、上流からの小川の谷が北東側と南西側に挟まれている。
マズラは、シャハリアガルにつながる谷と、サルザリ側にある谷の間の尾根上にある。小さな起伏があるが全体として平坦で見晴らしが良い。
10月6日夕方、アルメニア軍はアゼルバイジャン軍が南部で新たな攻勢を開始したことを発表した。この日を通じて双方で砲撃戦が行われている。
10月7日には、4日に制圧したマフムドルから麓に沿う道沿いに西南西に1.5km弱のシュクルベリで行動するアゼルバイジャン軍の映像が公開されている。首都ステパナケルトに対するアゼルバイジャン軍の砲撃も行われた。
この日、どこかは不明であるが、正午までにアゼルバイジャン軍がアルメニア軍の基地を占領したと発表している。逆にアルメニア軍が奪還した地域もあるようだ。
10月7日あたりから天候は回復する。翌8日に掛けて各地で夜間、戦闘が継続したようだ。2100から月も出て南中は0500頃、月齢も20歳となり黎明期において北に向かって月明かりが照らす状況である。北に面した高所の陣地を夜空に映し出したと思われる。なお10月16日が新月となる。
10月8日にはアゼルバイジャン軍がシュシャを砲撃しているが、両軍とも砲撃戦が行われたようである。
10月9日には、同4日に制圧したカラカンから稜線を斜めに越えて北北西3km弱のエフェンディヤル、そのエフェンディヤルから幾つかの稜線を越えて北北東3.6km弱のスレイマンリ、そのスレイマンリから山腹を登る東北東に2km弱のカラカラ、同じく谷を越えて北北東4.3km弱の稜線上にあるユハリグズリャク、北西2.1km強のグシュラク、同じくグシュラクを越え谷内を登って4.5km強のソルを日中に制圧し、アルメニア軍の拠点だったハドルドも制圧した。
エフェンディヤルはカラカンのある谷の上流の北東斜面にあり、その間の谷地は幅1km程で広くなだらかである。この辺りになると周囲の尾根も急になってくる。
スレイマンリはダケサンと同じ谷の上流にあり、エフェンディヤルとの間には急な尾根が数本ある。谷はここから上流に向かって数条に分かれる。
カラカラはスレイマンリの北東側の尾根の上にあたり小さな盆地になっている。盆地の周囲の尾根の径は1.5km程だが、底の平地は幅200mぐらいしかない。南西の尾根の上からは若干、細かい稜線に邪魔されるが概ねスレイマンリを見渡すことができる。
グシュラクは、スレイマンリから一番大きな谷底を上流に向かって進んだ位置だ。ここもカラカラ周辺の尾根から見通すことが可能だ。
ソルは、さらにグシュラクから先に谷底を進んだ場所になる。谷の終わりまで2~3km程で、谷は、更に大きな谷に横切られ、その先は斜面となっている。カラカラの位置する尾根上の盆地の周囲からは、同じ稜線の延長になり、カラカラからの見通しは苦しい。ソルの位置する谷そのものが稜線の斜面を登っており稜線を南にやや下った場所になる。ソル周辺の高台からグシュラクとスレイマンリを見通すことは可能だ。
ユハリグズリャクは、カラカラとソルを概ね結んだ稜線の北東方向にある谷底にある。この谷の上流側の谷底がアルメニア軍が10月5日に陣地を撤退したハドルドである。カラカラとソルの北東の稜線からは、ユハリグズリャクもハドルドも俯制できる。
ハドルドからは谷が分かれるがその一方が首都ステパナケルトに向かう道路があり、通行を塞ぐ位置になる。10月3日に制圧したアサギ・アブドラフマンリからユハリグズリャクと通りハドルドに至る経路は割合地形がなだらかであり、ホラディス方面からハドルドにアゼルバイジャン軍は部隊を進めたのかもしれない。9日に制圧した地点は、この動きを援護するための可能性が高いのではないだろうか。10月初め前後に攻撃したフュズリからハドルドは13km程であり、ここから稜線越えで南西に火力支援をしたのかもしれない。カラカラ辺りからの弾着観測が得られるなら十分に命中弾を浴びせることができるだろう。
なお、東京にステパナケルトを置き換えた位置関係は、ソルは西南西43km程で木更津市の上宮田、グシュラクは44km程で同じく上根岸にあたる位置である。
10月5日にアルメニア軍が撤退したハドルドは、ユハリグズリャクから稜線上を西北西に4.9km強、ソルから尾根を越えて北に3.1km強に当たる。またユハリグズリャクから首都ステパナケルトまでは北西に45kmで道路も通じハドルドはその途上となる。
〇 3度の停戦とシュシャへの進撃
その後10月10日に入り一度目の停戦となるが、各地で砲撃が行われハドルド奪還に向けたアルメニア、アルツォフ側の攻撃があった。17日には二度目の停戦となるが、その後も砲撃が行われ、北方のアルメニアとの国境のチャムバラクへのアルメニア軍の攻撃などがあった。20にはネズミ形の後ろ脚のつま先にあたるザンギランをアゼルバイジャン軍が制圧し、22日にも同方面のアグベンドを制圧した。26日にも三度目の停戦となる。
10月27日アゼルバイジャンはアルメニア軍が、ネズミ形の頭頂部の北東にあたるバルダ付近の村をミサイル攻撃し、民間人4人が死亡、13人が負傷したと発表している。この地域は8日にも砲撃を受けている。9月29日アルメニア軍戦車を撃破したキョヤルフから東に29km、ホラディズからは北に104kmという位置関係となる。
小競り合いが続いて、しばらく情報が途絶えているが、11月9日に、いきなりアゼルバイジャン軍がシュシャを制圧する。この間の戦闘がいずれも首都方面とは大きく離れているが、アゼルバイジャン軍は4度目の停戦交渉に備えて失地奪回の拡大と首都方面への作戦の陽動をしていたのかもしれない。
日々、この辺りの情報は今後、更新されて明らかになりつつあるものもある。これらについては、改めて追いかけてみたい。
シュシャは首都ステパナケルトから南に7kmであり、東京に当てはめると北品川の東の品川浦船溜まりあたりに当てはまる。まさに王手を賭けたようなものである。
ハドルドとフュズリからシュシャへは、山岳地帯ではあるが縦走地形となり、道路もあることからシュシャへ向かって進撃したのであろうが、戦闘の情報がないことからアルメニア軍の抵抗は少なかったのかもしれない。首都に至る道筋に抵抗拠点を築くことは可能だろうが、アルメニア、アルツォフ軍は兵力が不足していたのだろうか。
過去三回の停戦は人道目的と称されたが、おそらく遺棄遺体や装備の回収などが目的の暫定的なものであろう。しかし、この四回目については勝敗の態勢が決したようである。アルメニアとしてはこれ以上の抵抗が困難であり、もし戦闘を継続した場合、ステパナケルトが陥落し、アルツォフの北東側の小バグー山脈に兵力を孤立されることになると判断し、停戦交渉条件でアゼルバイジャンの要求を飲まざるを得ない状況となったと考えられる。
〇 停戦と今後
アルメニアとしては、「情勢に鑑み、耐えがたきに堪え、忍び難きに忍び」というところであろう。報道によれば徹底抗戦派が国会を占拠したなど混乱しているが、戦闘がアルメニア本国に拡大することを警戒したのかもしれない。アルツォフとしては更に問題は深刻であり、アルメニアと異なり今後の占領地域で徹底抗戦することも考えられる。
今回の武力紛争はロシアとトルコの代理戦争的な背景もあったが、この両者も徹底的な対立は好まなかったのだろう。ロシアとしてはCIS諸国の集団防衛としてアルメニアを蔑ろにはできないが、トルコとはS400地対空ミサイル売却の件やポスポラス・ダーダネル海峡通峡問題などがあるからトルコとの決定的な対立にはしたくなく、トルコも対ギリシャ問題やリビアの問題も抱えているから、拡大は好まなかったようだ。さらにこの地域に欧米の影響力が入ってくることは両者とも望まなかったようだ。11月10日にアゼルバイジャンがロシア軍のヘリコプターを誤って撃墜しロシアに謝罪したが、ロシアの介入拡大をアゼルバイジャンとしては防ぎたいであろうから、これも停戦を急ぐ原因の一つになったのかもしれない。
おそらく戦況が大方、アゼルバイジャン軍の優勢になって4度目の停戦を迎えたので、しばらくは現状が維持されるだろう。もし将来、また紛争が再開されるなら、南北を挟む形でアゼルバイジャン軍が拠点を抑えており、アルメニア・アルッオフ軍にとって形成不利であろう。